『新世紀エヴァンゲリオン』といえば、今や説明不要の人気SFロボットアニメです。
その人気の秘訣には、エンターテインメント作品として抜群に優れているだけでなく、SF(科学)的ギミックと心理学的概念と宗教的シンボルの融合にあるといえます。
そういった専門用語を多用し、全貌や実体が明らかにされない数々の伏線をちりばめたストーリーが、大人の鑑賞に耐えうるアニメとして人気を誇っているのですが……その結びつきや解説が本編中でほとんどなされないため、「難解だ」「意味がわからない」といった意見が目立つのも事実。
ですが直接説明されてはいないものの、そのフィルムに込められた膨大な情報量を1つ1つ分析することで、『エヴァ』という作品の本質が見えてきます。長々しい説明は映像メディアに適しておらず、一見意味不明なストーリーや心情描写も、ある1つの理論にのっとって、極めて論理的に展開されていることがわかります。
『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』ポスター(著者撮影)
『エヴァ』では「リビドーとデストルドー」、「喪とメランコリー」、「愛憎のアンビバレンス」といった精神分析学的概念が、物語の後半において重要になってきます。
今回はその中でも、「リビドーとデストルドー」に注目して『エヴァ』を読み解いてみようと思います。
「リビドー」は、現在ではもっぱら「性衝動」や「エロス」をあらわすワードですが、精神分析学上では「生の欲動(本能)」と解釈されます。
「デストルドー」は反対に「死の欲動(本能)」であり、「タナトス」とも呼ばれます。(エヴァのサウンドトラックには「Thanatos」という曲がいくつもありますね)
物語が終盤に差し掛かるに連れて、主人公シンジは自我をデストルドーに支配され、自分の死(自殺)を願うようになります。このシンジの自殺願望が人類補完計画を引き起こし、最終的に人類のLCL化を引き起こすのです。
『エヴァ』の考察や論評はたくさんありますが、シナリオや宗教的なワードに注目したものが大半を占めます。今回は精神分析学をテーマに、『エヴァ』のキャラクターの精神やドラマをひも解いていきます。
一見難解な『エヴァ』のストーリーですが、精神分析学の視点からキャラクターの心の状態を考察していくと、驚くほど簡単に理解することができます。
なぜなら『エヴァ』とは一言でまとめてしまえば、「現代人のコミュニケーション不全」を描いた物語だからです。このテーマをエンターテインメントとして表現したものが、まさに「人類補完計画」でした。
さらに『エヴァ』の結末に提示された答え(シンジによるアスカの首絞め)を考察することで、庵野秀明監督の考えによる、現代人のコミュニケーション不全や、デストルドー=自殺との向き合い方を知ることまで可能なのです。
では以下、ネタバレ全開で考察・論評スタート。最後にはエヴァを考察するうえでのオススメ本やグッズも紹介しますので、ぜひご覧ください。
また2007年から『新世紀エヴァンゲリオン』のリメイク版である『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』が放映されていますが、今回の論評ではこちらには特に触れないものとします。
※2021年9月更新
①『新世紀エヴァンゲリオン』と精神分析学
②リビドーとデストルドーと人類補完計画
③【首絞め】デストルドーで読み解くエヴァのストーリー
④『エヴァ』に見る自殺:庵野秀明監督の出した答え
⑤参考文献とオススメの『エヴァ』考察本
①『新世紀エヴァンゲリオン』と精神分析学
アニメ『新世紀エヴァンゲリオン』とは、1995年に放映が始まったオリジナルテレビアニメーションです。
全26話が放送されたのち、1997年に完結編として『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』が公開されました。
この劇場版は前半(『Air』)と後半(『まごころを、君に』)に分けられているのですが、前半は「25話」、後半は「26話」とアイキャッチに書かれており、一見テレビ版と重複しているように思われます。
これはテレビ版の25話、26話ではキャラクターの心象世界のみが描かれ、劇場版の25話、26話はテレビ版に対し、現実の世界では何が起こっていたのか、というコンセプトで作られたからです。
『EVANGELION CHRONICLE』(㈱ウィーヴ発行)にシンジのプロフィールが載っているので、以下に抜粋します。
- 幼い時に母と死別し、父とも離れて暮らしていたために、自分の殻に閉じこもりがちな消極的な性格である。人と深く関わることが苦手なため、無用のトラブルを避ける処世術を身につけている
- 心の拠り所を模索するシンジは、他人を求めながらも他人によって傷つくことを恐れるというアンビバレンスをかかえていた
モラトリアム人間とは、「対象と深く関わることを嫌い、『その中にまき込まれて、傷つくことや、自分を失うことを恐れる』ことを特徴とする人間。その深層には、対象を失ったときの悲哀を事前に回避しようとする心理が働いている」のだと精神分析家の小此木圭吾氏は説明しています。
「ヤマアラシの場合、相手に自分のぬくもりを伝えようと思っても、身を寄せれば寄せるほど身体中のトゲでお互いを傷つけてしまう。人間にも同じことが言えるわ。今のシンジ君は、心のどこかで痛みにおびえて臆病になっているんでしょうね」(2話より)
また同じパイロットの1人、惣流・アスカ・ラングレーからは「本当に他人を好きになったことないのよ!」と責められています(劇場版26話)。
さらに渚カヲルからは「一時的接触を極端に避けるね、君は。怖いのかい? 人と触れ合うのが。他人を知らなければ、裏切られることも、互いに傷つけあうこともない」とその心を暴かれています(24話)。
これは相手に対して、愛情も憎しみも伴わない付き合い方をして生きてきたということでもあります。
またモラトリアム人間(悲しみ方を知らない人間)は、はたから見ると明らかに対象喪失が起こっている状態なのにもかかわらず、対象喪失を対象喪失として経験する代わりに、なぜか不可解な無気力状態に陥ってしまうという特徴があります。
「自分だけが不当に虐げられてひどい目にあっている」とか「感情がなくなってしまった」「自分が空っぽだ」といった自己喪失体験だけを、ひたすら訴えるのです。
簡単にいってしまえば、フラれた女に逆ギレして自分のプライドを守ろうとするしょーもない男みたいなものです。
辛い目に遭ってしまうと、シンジは現実を直視せずに、すぐに自分の殻に閉じこもろうとします。そしてモラトリアム人間同様の発狂を繰り返すのです。
「僕のことを大事にしてよ!」「僕に優しくしてよ!」(以上、20話より)「このままじゃ怖いんだ! いつかまた僕が要らなくなるのかも知れないんだ」「ねぇ僕を助けてよ」「僕を見捨てないで! 僕を殺さないで!」(以上、劇場版26話より)
②リビドーとデストルドーと人類補完計画
「リビドー」と「デストルドー」は、精神分析学の創始者であるジークムント・フロイトによって提唱された精神分析学上の概念です。この2つは『エヴァ』において重要なキーワードでもあります。
まず最初に本論に移る前に、庵野秀明がエヴァを作るにあたって、精神分析学の要素を積極的にエヴァに取り込んでいたことを示すインタビューを紹介します。
上野俊哉:『エヴァ』をやってて、そういうのに向かっていったっていう感じですか?
庵野秀明:そうです。自然にそっちに。以前は精神分析の本て、全然読まなかったんです。大学の一般教養ので少し触れた程度ですね。その中では一番面白かったです
(中略)
庵野秀明:ええ。僕、人間にあまり興味がなかったんでしょうね。それが、自分の話をはじめたときに、途中で伝える言葉が欲しくなったんですよ。それで、いちばん使いやすいと考えたのが、世間一般で使われている心理学用語ということばだった。そして、本をあさりはじめたんです。それまで、心理学に興味をもつなんて思わなかったッス
庵野秀明:16話が最初なんですよ。ストレートに自己の内面世界に突入してしまったのは。以前から線画によることばの表現というのもやってみたかったし。あのシーンのダイアローグは比較的にまだ楽だったんですよ。自分のことをそのまま台詞にすればよかったんです。しかしその後、総集編のレイのモノローグで詰まったんです。あ、制作は16話のほうが先に入ってたんですよ。総集編は後からつくっても間に合いますから。で、どうもイメージわかないときに、友人が『別冊宝島』の精神病の本というのを貸してくれて。その中のポエム群ですね、ショックを受けたのは。脳天直撃でした。そこでスイッチが入れ替わったんでしょうね。レイのモノローグが堰を切ったように浮かんで来ましたから。その本のポエムとはまるでちがうものなんですが。その友人のお陰ですね、ワンステップ進めたのは。ありがたいです。『月刊ニュータイプ』1996年11月号(1996)より
…と、最初から興味があったというよりは、エヴァを制作するに当たって精神分析学の世界に取り憑かれていったようです。
ただここで興味深いのが、ソースにしたのが『別冊宝島』の精神病の本ということですね。
これって、いわゆるムック本なんですよ。本当のアカデミックな学者ではない、自称専門家や、在野の雑多なライターが書いたもので……だからこそ、エンタメに転用しやすかったというのもありますし、逆に、アカデミズムの見地から見ると誤解や誤謬も多い……という欠点もあります。
ですから以下、精神分析学についての概要を取り上げますが、それはあくまでもエヴァ内で活用されている通りの用例であり、学術的な側面に即した場合には、間違いや拡大解釈も含むということも、最初に述べておきたいと思います。(という名の予防線です)
リビドーとデストルドーとは
フロイトは初めに、「自殺は自我に向けられた攻撃である」と考え、自殺を「攻撃性の内向」であると解釈しました。フロイトはさらに研究を重ね、人間心理の深部に底知れぬ破壊性が潜むことを暴き、またそのような「死の欲動(本能)」がすべての人間に根強く存在するのだと述べたのです。
どんな人間も破壊衝動(攻撃性)を持っており、これを自分に向けた場合に自殺が起こる……。
1つは「生の欲動(リビドー)」です。
リビドーは、分解されて分子の状態になっている物質を、さらに複雑な生命体へと集合し、生命を保持しようとします。これは生きる本能と言い換えてもいいでしょう。
第2の欲動は「死の欲動(デストルドー)」です。これは「タナトス」とも呼ばれますが、エヴァのサウンドトラックには「Thanatos」という曲がいくつもありますよね。
デストルドーは生命体を生命のない状態に分解する力です。あらゆる攻撃性や破壊衝動、自殺願望のもとになります。
生命体(人間)は、リビドーとデストルドーという2つの本能のせめぎあいで成り立っています。
リビドーは生の欲動であると同時に、性衝動やエロスとも解釈されます。これは生命を生み出そうとする本能が、性本能と強く結びついているからです。フロイトは、性欲と生きようとする欲求は同質のものだといったのですね。
この2種類の欲動はそのまま、愛情と憎しみという言葉に置き換えることができます。またフロイトは、「憎しみは愛の先駆者である」とも述べました。この発想はエヴァに大きな影響を与えています。
個体維持のためにはデストルドーの発散は必須であり、これが外部に向けられると破壊本能として表出し、筋肉系がその発散に使われる。
つまり、デストルドーこそが自殺の根源的な原因なのです。
さらにフロイトは自殺にとどまらず、人々が平和を求めているにも関わらず人類史から戦争や暴力がなくならない根源的原因を、デストルドーからおこる破壊衝動にあると解釈しました。
ガス抜きとしての戦争を完全に放棄した現代日本で、突発的かつ残虐な事件が頻発したことや、自殺者が急増したことは、このフロイトの理論が現れている気がしますね。
ここで、フロイトの語ったデストルドーについてまとめてみます。
- デストルドーは基本的に、自我に気づかれることなく自我を支配する
- デストルドーのエネルギー量は小さなものだが、多くの人のデストルドーが集まれば、戦争における大量殺戮をも可能にする
- デストルドーは無言かつ強大なものであり、自我が抵抗しがたい衝動である
- デストルドーは生命の発生上、最も古い欲動(本能)である
- デストルドーの目的は生命発生の限界点=非生命への退行である
- フロイトは、デストルドーが求める非生命への到達点を「死」とした
庵野秀明監督は、このテーマに真正面から挑みました。『エヴァ』とはまさに、自殺大国日本に投げかけられた、自殺との戦いを描いたアニメなのです。
『エヴァ』におけるリビドーとデストルドーと人類補完計画
『エヴァ』では、パイロットの自我境界パルス(生理状態)を表すモニターのグラフに、リビドーとデストルドーという単語が見られます。
『エヴァ』で頻繁にいわゆるサービスカットや濡れ場が登場するのは、単純な視聴者へのサービスだけでなく、エロス(リビドー)が物語において重要な要素になっているからです。
またリビドーは、ATフィールドの発生源だと考察できます。
この授乳シーンは、口唇期(こうしんき)を象徴しているのでしょう。その根拠は、20話の英字タイトルに「oral stage」(口唇期の英訳)とあるからです。
口唇期とは、リビドーの発達の第一段階を表します。赤ん坊は乳首などを吸うことによって、口唇に快感を得るのです。だから赤ん坊は指しゃぶりをしたり、おしゃぶりを吸うのです。
赤ん坊が乳を吸って栄養を摂取するのは、本能ではなくて、口唇の快楽があるおかげなんです。
ATフィールドは物語の序盤では単なるバリアーや衝撃波のように描かれていますが、のちに「個体生命を維持するための領域」であり、また同時に「自我境界線=心の壁」でもあることが発覚します。
ゼーレが目指した「人類補完計画」とは、ヒトのATフィールドを取り去って、群体(個体の集合体)として行き詰った人類という種を、単体という究極の1つの生命体へと人工進化させる作戦でした。
人類補完計画が発動してATフィールドを失った人間は、個体生命の形を維持できなくなり、「LCL」という液体に還元されます(LCL化)。
LCLは生命の原初的な姿であり、生命発生以前の原始地球の海=「生命のスープ」とも表現されます。劇場版26話でその様子が描かれましたね。
またATフィールドが失われれば、身体が溶けあうだけでなく、その心(魂)も1つになります。ゲンドウはこれを「欠けた心の補完」と呼びました。
20話でシンジはATフィールドを喪失して、人の姿を失い、LCLに還元(LCL化)されてしまいます。この状態は「(エヴァ初号機との)シンクロ率400%」として表現されました。その後シンジはATフィールドを回復し、人の姿を取り戻します(初号機からのサルベージ)。
この一連の流れ、実はラストで描かれた人類補完計画の発動(人類のLCL化)と失敗(個体の復活)とまったく同じなんです。20話と26話の違いは、LCL化したのがシンジ1人か、人類全体かの違いだけです。
ですから20話を理解すれば、26話のストーリーも自然と理解できます。
20話においてシンジがATフィールドを失ったのは、自我をデストルドー(死の欲動)に支配され、ATフィールドの発生源であるリビドー(生の欲動)を失ったからです。その後エロス(性衝動)=リビドー(生の欲動)を獲得し、ATフィールドを取り戻し、シンジは人(個人)として復活しました。
反対にデストルドーは、アンチATフィールドの発生源だと考察できます。
劇場版26話において日向マコトの「(シンジ=初号機の)デストルドーが形而下していきます。アンチATフィールド更に拡大!」というセリフがそれを表現しています。
アンチATフィールドとはATフィールドを打ち消す力です。
「セカンドインパクト」で、南極海がバクテリア1つ存在しない「死の海」になってしまったのは、南極で発見された光の巨人(第1使徒「アダム」)のアンチATフィールドが展開され、南極海の全生命がLCL化してしまったからでした。
つまり人類のATフィールドを消滅させて、人類補完計画を発動させるには、アンチATフィールドおよびその発生源であるデストルドーが必要不可欠なんです。
そこでアンチATフィールドを放出する「依り代」とされたエヴァ初号機が、人類補完計画におけるポイントとなり、また同時に、アンチATフィールドの発生源であるデストルドー=シンジの絶望(自殺願望)がゼーレやゲンドウにとって重要な鍵となるのです。
③【シンジの首絞めの謎】デストルドーで読み解くエヴァのストーリー
劇場版25話におけるデストルドー
『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』では、すべての使徒をせん滅したシンジたち「ネルフ」が、ゼーレの送った「戦略自衛隊」に制圧されてしまいます。
シンジも殺されそうになりますが、シンジは座り込んで動かず、「…もう、嫌だ。死にたい。……何もしたくない」と、自死を望む発言を繰り返します。ここにははっきり、デストルドー(絶望と自殺願望)の現れを見ることができます。
ただし劇場版25話の冒頭では、シンジはアスカの裸を見て自慰をしていますから、リビドーがまだ存在することがわかります。まだ完全にデストルドーに自我を支配されたわけではないのです。
ではなぜこの時、シンジの心にはデストルドー(絶望)が現れたのでしょうか?
このシンジの絶望は、前話であるテレビ版24話のラストシーンを引き継いだものです。
24話でシンジは、新しいパイロットであるカヲルと出会い親しくなります。しかしカヲルが敵である使徒だと判明し、シンジは最終的にカヲルを殺しました。
この後にシンジは、「カヲル君が好きだって言ってくれたんだ……僕のこと。……好きだったんだ。……生き残るならカヲル君のほうだったんだ」と相対的に自殺を願うような発言しています。
この心理状態には、フロイトが提唱した「喪の作業」との関連を見ることができます。
喪の作業とは、大切な人やモノ(愛着対象)を失ったときに、残された人がたどる心の過程のことです。人は愛する者の死に際して、葬儀や哀悼の意を通じ、時間とともにをその死を徐々に受け入れ、失った対象への執着から解放されていきます。
対象喪失と喪の作業は、なにに人の死だけではありません。愛着を持っていた家を失なった時や、愛する恋人にフラれた場合にも同様の心理現象が起こります。
しかしシンジは最初に述べたように、他人と深く関わらずに生きてきたモラトリアム人間であり、対象喪失を体験したことがありません(避けてきた)。ですからカヲルを失った際に喪の作業を上手く行えず、シンジの心象にはずっとカヲルが存在し続けることになります。
次に「愛憎のアンビバレンス」に注目してみます。
フロイトは、「愛する者や依存対象との関係には、愛情だけでなく、必ず憎しみという両面(アンビバレンス)が伴う」と説明しました。
しかし対象喪失においては、「対象は喪失し自分だけが生き残った」という現実が、相手に対する憎しみを後退させます。対象への憎しみは、その対象が喪失することによって達成され、対象の良い面のみが全面に現れるからです。これを「対象の理想化」といいます。
嫌いな肉親が死んだ後、急に良い人のように思えてきたり、または自己嫌悪に陥ったりする者が多いのは、この現象のせいです。
この現象は、カヲルを失ったシンジにもそのまま起こっています。
シンジはカヲルを殺す直前まで、「裏切ったな! 僕の気持ちを裏切ったな!」とカヲルへの憎しみをあらわにしていますが、殺した後は上記のように「生き残るなら(自分ではなく)カヲル君のほうだったんだ」と自己嫌悪に陥り、カヲルに対して「対象の理想化」を行っていることがわかります(24話)。
ですがシンジの場合、カヲルという「対象の理想化」だけにとどまらず、自殺願望というレベルの強烈な自己非難にまで発展しているのが特徴的です。
このシンジの精神状態は、フロイトの述べた「メランコリー(鬱病)」状態です。
メランコリーとは、「深刻な苦痛に貫かれた不機嫌さ、外界への関心の喪失、愛する能力の喪失、あらゆる行動の抑止と自己感情(自己肯定感)の低下」などの症状が見られる精神状態のこと。
自己肯定感の低下といえば、現代日本人に叫ばれれがちな心の問題ですよね。この自己感情(自己肯定感)の低下は、自分を責め、自己への軽蔑につながります。
さらに自己肯定感が究極に低下したときには、自己の処罰を妄想的に求めるまでに至ります。つまり自殺願望であり、自分自身の喪失です。
メランコリーの症状は、劇場版25話のシンジに完全に当てはまります。
カヲルを失ったものの、憎しみと愛情を持って対象と関わったことのないモラトリアム人間であったシンジは、適切な喪の作業を行うことができず、メランコリーを発症してしまいます。
ですからシンジのデストルドーの根本的な原因は、カヲルという対象を喪失したことですが、正確には、「対象(カヲル)を喪失した自分自身を喪失した」ことで、メランコリー(鬱=絶望)を発症したことが最大の原因です。
24話においてカヲルを失ったシンジはメランコリー(絶望)状態になり、デストルドーが大きくその自我に現れました。ですから劇場版25話では、シンジの心はデストルドーに支配されかけており、「…もう、嫌だ。死にたい。……何もしたくない」と自殺を願うまでに至るのです。
冒頭時点では自慰行為をしていたように、リビドーの生き残りがまだわずかに見られるものの、やがてミサトの死やアスカの死といった悲劇が次々とシンジを襲います。
こうしてシンジの心は完全にデストルドーに支配され、ゼーレの目論見通りにアンチATフィールドを展開させ、人類のLCL化=人類補完計画が発動されることになります……。
また、劇場版『Air / まごころを、君に』の主題歌のタイトルは「THANATOS -IF I CAN'T BE YOURS-」です。「Thanatos(タナトス)」とはデストルドーのことですが、この主題歌(エンドロール)は25話と26話の間に流れます。
エンドロールがエンドじゃないなんて特殊な構成に思えますが、これは劇場版25話のラストで、シンジの心が完全にタナトス=デストルドーに支配されたことを示唆していると解釈すれば、これ以上ない演出方法だと納得できますよね。
劇場版26話におけるデストルドー
ミサトを失ったシンジはエヴァ初号機に搭乗したものの、自分が動かなかったせいでアスカが殺されたことを知り、発狂してしまいます。
こうしてシンジの心からリビドーは消え失せ、自我は完全にデストルドーに支配されました。
「デストルドーが形而下していきます!」「アンチATフィールド更に拡大!」「自我境界が弱体化していきます!」「このままでは個体生命の形が維持できません!」といったオペレーターたちの会話、さらにシンジの心象内での「僕なんか死んじゃえ」といったセリフがその根拠として挙げられます。
同時刻、綾波レイはゲンドウの右手に移植されていたアダムを取り込みます。そしてターミナルドグマにはりつけにされていた第2使徒リリスと融合。
レイの魂は、リリスの魂をサルベージしたものですから、ここにリリスは完全なかたちを取り戻し、ゲンドウのいう「アダムとリリスの禁じられた融合」を果たします。
なぜ禁じられた融合なのかというと、リリスは「知恵の実」を、アダムは「生命の実」を持つからです。
『旧約聖書』によれば、天上の楽園である「エデンの園」には1つの木があり、そこに知恵の実と生命の実が成っているといいます。「禁断の果実」とも呼ばれますね。人類はこの知恵の実を食べたことで、知恵を獲得しましたが、神によってエデンの園を追放されてしまいます(失楽園)。
なぜ追放されたのかというと、知恵の実に続いて生命の実を食べられることを恐れたからです。
生命の実を食べると、永遠の命を得ることができるといわれます。そして知恵の実と生命の実の両方を食べたものは、神と等しい存在にもなれるのです。
ここで人類とは反対に、生命の実を食べたのが「使徒」でした。ですから使徒は、「S2機関」と呼ばれる無限のエネルギー源を持つのです。
『エヴァ』における世界観では、知恵の実を食べたリリスに端を発する生命体の最終進化形態が「ヒト」であり、生命の実を食べたアダムに端を発する生命体が「使徒」だということになっています。
カヲルは人のことを「リリン」と呼びますが、これはヘブライ語における「リリス(Lilith)」の複数形です。
もともと地球ではアダム系統の使徒が繁栄していたのですが、リリスの眠る「月」が地球に激突(これが「ファーストインパクト」です)し、地球では使徒にとってかわってリリス系統の人類が繁栄することとなったのです。
ファーストインパクトによってアダムは南極に封印され(これが「白き月」)、リリスの眠る「黒き月」をもとに作られたのが、第3新東京市のジオフロントでした。しかし2000年に人類が南極からアダムを発見し、覚醒させてしまった(これが「セカンドインパクト」です)ことで、アダム系統の生命体である使徒が人類から地球を奪い返そうと攻撃をしかけてくることになりました。
いわば人類と使徒の戦いは、生命の実系統の生命体「ヒト」と、知恵の実系統の生命体「使徒」という2系統の生命体の生存戦争ともいえます。
宗教的な考察になってしまいましたが、話を精神分析学に戻します。
こうして「アダム(生命の実)とリリス(知恵の実)の禁じられた融合」を果たしたレイは神に等しい力を手に入れたのですが、なんとゲンドウを裏切ってエヴァ初号機と同化し、シンジにその神の力をゆだねてしまいます。
冬月コウゾウはエヴァ初号機について「使徒の持つ生命の実とヒトの持つ知恵の実。その両方を手に入れた。そして今や、命の胎芽たる生命の木へと還元している。この先にサードインパクトの無からヒトを救う箱舟となるか、ヒトを滅ぼす悪魔となるのか。未来は碇の息子に委ねられたな」と語っています。
つまりシンジのデストルドーがリビドーに勝れば、人はATフィールドを失い人類補完計画が遂行され、反対にシンジのリビドーがデストルドーに勝れば、人はATフィールドを取り戻し人類補完計画は失敗する――文字通り、人類の運命はシンジが握ることとなりました。
余談ですが、「ロンギヌスの槍」にはデストルドーを増幅させる機能があると考察されます。
これはセカンドインパクトの際に、ロンギヌスの槍を用いてアダムを卵の状態にまで還元したという劇場版25話におけるミサトのセリフや、22話においてリリスの上半身に刺さったロンギヌスの槍を抜くと、下半身が復活したという事実から推測されます。
ロンギヌスの槍を刺された生命は、非生命=死にまで退行するのです。この機能は、フロイトの提唱したデストルドーの目的(機能)とまんま一致します。
さらに最大の根拠として、22話において月の衛星軌道上に乗ってしまい回収不可能になったロンギヌスの槍が、シンジの絶望=デストルドーに呼応して呼び戻されたことが挙げられます。
しかしロンギヌスの槍が失われたことで(先ほど述べたように最終的には戻ったものの)、リリスによる遂行が不可能になったというのです。なぜエヴァ初号機ではなくリリスの場合には、ロンギヌスの槍が必要なのでしょうか。
これは人類補完計画の遂行=人類のATフィールド消失のためには、神の力を手に入れた存在がアンチATフィールドを放出しなければならないからです。そしてアンチATフィールドの放出には、発生源であるデストルドーが必要不可欠です。
つまりリリスにロンギヌスの槍を刺して、デストルドーを増大させ、アンチATフィールドを放出させる計画だったのです。
しかしロンギヌスの槍がなくなってしまったので、エヴァ初号機=シンジによる遂行を決めました。これは逆にいうとシンジの場合は、ロンギヌスの槍が不要だといういう意味でもあります。
なぜならシンジは「ロンギヌスの槍によるデストルドー増幅」なしでも、シンジ自身の絶望(デストルドー)を利用してアンチATフィールドを展開できるからです。
これはゼーレの「エヴァンゲリオン初号機パイロットの欠けた自我をもって人々の補完を」というセリフからも推察されます。
「リリスの唯一の分身」というキールのセリフは、エヴァは零号機と初号機のみリリスのコピー(クローン)で作られており、弐号機以降はアダムのコピーから作られているという事実を意味します。零号機は23話で自爆し消失しましたから、劇場版26話の時点ではエヴァ初号機がリリスの唯一の分身なんですね。
リリス系統の生命体である人類の補完には、リリスか、もしくはリリスのコピーを依り代にする必要があったのでしょう。
こうして神と等しい存在となったシンジですが、絶望(デストルドー)に自我を支配されたことで、強大なアンチATフィールドを放出。ついにゼーレの目論見通りに人類補完計画は発動してしまい、すべての人々の身体と魂は1つに溶け合ってしまいます。
シンジ「僕は死んだの…?」レイ「いえ、全てが一つになっているだけ。これがあなたの望んだ世界、そのものよ」
しかし最終的に、シンジは他人のいる世界=ATフィールドという個で区切られた、単体ではなく群体である人類の復活を臨みます。
レイ「都合のいい作り事で、現実の復讐をしていたのね」シンジ「いけないのか?」レイ「虚構に逃げて、真実をごまかしていたのね」シンジ「僕一人の夢を見ちゃいけないのか?」レイ「それは夢じゃない。ただの現実の埋め合わせよ」シンジ「じゃあ、僕の夢はどこ?」レイ「それは、現実の続き」シンジ「僕の、現実はどこ?」レイ「それは、夢の終わりよ」
それはわかりあえない他人との恐怖の復活であり、コミュニケーションを必要とする世界でした。
シンジ「でも、これは違う。違うと思う」レイ「他人の存在を今一度望めば、再び心の壁が全ての人々を引き離すわ。また、他人の恐怖が始まるのよ」シンジ「いいんだ…ありがとう…」
このシンジの精神プロセスと結末は、心象世界のみを描いたテレビ版26話でも同様でした。
カヲル「再びATフィールドが、君や他人を傷つけてもいいのかい?」シンジ「かまわない。でも、ぼくの心の中にいる君達は何?」レイ「希望なのよ。人は互いに分かり合えるかもしれない、ということの」カヲル「好きだ。という言葉とともにね」シンジ「だけど、それは見せかけなんだ。自分勝手な思いこみなんだ。祈りみたいなものなんだ。ずっと続くはずはないんだ。いつかは裏切られるんだ。ぼくを見捨てるんだ」シンジ「でも、ぼくはもう一度会いたいと思った。その時の気持ちは本当だと思うから」(26話より)
モラトリアム人間(対象と深く関わることを嫌い、『その中にまき込まれて、傷つくことや、自分を失うことを恐れる』ことを特徴とする人間。その深層には、対象を失ったときの悲哀を事前に回避しようとする心理が働いている)であったシンジは、全26話を通じてモラトリアム人間を脱することを決意したのです。
このシンジの決意は同時に、人類のATフィールド回復=人類補完計画の失敗を意味しました。シンジは神に等しい力を持っていたからです。
このように、主人公の決意や戦いが、そのまま世界の運命や人類の危機に直結している作品を、「セカイ系」作品と呼び、1995~2010年代に非常に多く見られました。近年ですと新海誠監督の劇場アニメ『天気の子』(2019)が、直球のセカイ系作品で話題を呼びましたね。
シンジはなぜアスカの首を絞めたか:デストルドーで読み解くエヴァの「まごころ」
こうして人類補完計画は失敗し、海辺に復元されたシンジとアスカにシーンが移ります。
この時なぜアスカがシンジの隣にいたのかは、素直に、シンジがもっとも求めていた存在がアスカだったと解釈するのが妥当でしょう。
そしてアスカが「気持ちわるい」と一言呟いて、『エヴァ』という作品は幕を閉じます。
この時「なぜシンジはアスカの首を絞めたのか?」が、『エヴァ』における最大の謎の1つとなっています。しかし筆者はここに、人のデストルドーとの向き合い方の1つの答えを見ました。
つまり、現代社会で「人はどうやってデストルドーとつきあっていくのか」という命題に対する庵野秀明監督の考えでありメッセージが、シンジが行ったアスカの首絞めでした。
その答えは外部に発散すること、つまり、「人に向けること」です。
そもそもすべての人がデストルドーを持っているといいながら、実際に自殺に向かってしまう人間はごくわずかしかいません。その内の1人がシンジでした。
モラトリアム人間であり、自分が傷つくことを恐れ、愛情と憎しみを持って他人と深く関わることをしなかったシンジには、デストルドーを向ける相手がいなかったがため、己に向けるしかなかったのです。
監督の用意したデストルドーに対する答えは「愛する他人に憎しみを向けること」で、それ故に劇場版26話のサブタイトルは「まごころを、君に」であり、英字タイトルは「I need you」(君が必要)だったのでしょう。
シンジがアスカに向けた憎しみ(首絞め)は、アンビバレンスな愛情でもあります。この愛憎の感情こそが「まごころ」でした。
アスカもまた、シンジに対して「気持ち悪い」という憎しみの言葉を向けながら、首を絞めたシンジの頬を撫でるという愛情を向けています。
ちなみになぜ首を絞められたアスカが最後、「気持ち悪い」と呟いたのかという謎には、メタ的な回答があります。アスカ役の宮村優子氏が、『BSアニメ夜話』という番組で次のように説明しました。
最後のセリフは本当は「気持ち悪い」じゃなくて、「あんたなんかに殺されるのはまっぴらよ」だったんです。けど、最後何回もそれをいったんだけど、「違う、そうじゃないんだ、そうじゃないんだ」って長い休憩になって、私も緒方さんも「どうしたら監督の思うようなことが表現できるんだろうね」とかいって、あの首絞められるところなんて本当に緒方さんが私にまたがって首絞めたぐらい本当に監督からの要求がすごい難しくて、リアルを求めてたのかな、その最後のセリフに関してはですね、これは言っていいのかどうかわかんないんですけども、「もし」、アスカとかじゃないんですよ、いつもいわれることが、「もし宮村が寝てて部屋で、自分の部屋で一人寝てて、窓から知らない男が入ってきて、それに気づかずに寝てて、いつでも襲われるような状況だったにも関わらず、襲われないで、私の寝てるところを見ながら、あのさっきのシンジのシーンじゃないですけど、自分でオナニーされたと、それをされたときに目が覚めたらなんていう?」って聞かれたんですよ。前から監督は変な人だなって思ってたんですけど、その瞬間に気持ち悪いと思って、「気持ち悪い、ですかね」とかっていって、そしたら、「はぁ…やっぱりそうか」とかいって。(『BSアニメ夜話』2005年3月28日放送より)
④『エヴァ』に見る自殺:首絞めとデストルドーと愛憎
最後に、論評と考察のまとめを行います。
『エヴァ』ではフロイトの提唱したデストルドーの概念がそのまま生きていて、それ故に、監督の用意したデストルドーとの向き合い方に対する1つの答えを知ることができます。
それは、愛する他人にデストルドー(憎しみ)を向けることでした。それを実現するには、自分が傷つくことを恐れず、愛憎の感情を持って他人と深く関わることが必要です。
ですから人には必ず他人が必要なのです。この回答は、神と等しい力を手に入れたシンジが最終的に出した答えでもあります。人は互いに愛し合い、傷つけ合う生き物なのです。
最後に、シンジではなくアスカに注目してみようと思います。
アスカは15話でシンジにキスを迫ったり、劇場版26話では「あんたが全部あたしのものにならないなら、あたし何もいらない」「抱きしめてもくれないくせに!」とシンジへの愛を吐いています。
シンジが他者の存在を望み、(ちょうど挿入歌『Komm, susser Tod - 甘き死よ来たれ』が終わり)人類の補完が失敗するシーンでは、シンジたちの集合写真が表示されます。この集合写真のアスカのポーズは、手話で「I love you」を表しています。
結末における「気持ち悪い」というセリフからはシンジへの憎しみを、シンジに首を絞められても無抵抗で頬を撫でたシーンからはシンジへの愛情を見ることができます。
アスカはシンジと違って、対象(シンジ)に対してきちんと愛と憎しみを向けて接していました。『EVANGELION CHRONICLE』のキャラクター相関図を見ても、アスカのシンジに対する思いは「愛憎」とはっきり表記されています。
フロイトの精神分析学に従えば、1つの答えを見ることはできます。対象に向けたデストルドー(憎しみ)は対象を喪失することで昇華され、その後「喪の作業」を経て、それを対処することができるといいます。
しかしこれは他者の死を前提とした答えであり、殺人の容認にも繋がります。
前述したように、日ごろ起きている殺人事件はデストルドーを他人に向けたことから起こっており、戦争すらもその発現と見ることができます。つまり、デストルドーに自我を支配されないためにはどうしたらいいか、の答えは出たものの、結局「人とデストルドーとの向き合い方」についての納得できる答えは出ていないのです。
争いがなくなり平和になればなるほど、人は自殺を望むことになります。その答えを見つけ論じるには、膨大な時間がかかるでしょう。もしかしたら、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』シリーズの完結編である『シン・エヴァンゲリオン』(公開日未定)では、その答えがアニメーションを通して語られる……のかもしれません。
⑤参考文献とオススメの『エヴァ』考察本
ニュータイプフィルムブック 1997『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 フィルムブック』〈Air〉~〈まごころを、君に〉、角川書店
これでもなお「エヴァはよくわからん」という人は、公式の解説にあたるのが一番だと思います。放送当時は謎だらけだった用語や謎も、今や貞本義行氏による漫画版『新世紀エヴァンゲリオン』(貞本エヴァ)や、ゲーム『新世紀エヴァンゲリオン2』などでほとんど公式から説明されています。
しかし考察は『エヴァ』最大の魅力でもありますので、やはり自分で考察して1つの答えを出すのが楽しいかと思います。本記事もそういった考察の1材料にしていただければ幸いです。
ということで最後に、『エヴァ』を考察するうえでオススメのアプローチ方法・グッズを4つ紹介したいと思います。
①『エヴァンゲリオン用語事典』(八幡書店)
『エヴァ』で登場する専門用語の公式設定と『エヴァ』以外での本来の意味をまとめた用語辞典です。これは妄想が一切入っていないので、『エヴァ』の辞書として非常に有用です。パラパラめくってるだけでも楽しいです。
②『新世紀エヴァンゲリオン フィルムブック』『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 フィルムブック』(角川書店)
小ネタが満載で、エヴァに関する雑学を知ることができるのもいいのですが、なによりセリフが確認できるのがいいですね。考察の必須材料でしょう。もちろん脚本集を手に入れてもいいのですが、ちょっと敷居が高いので……。
③『庵野秀明 スキゾ・エヴァンゲリオン』『庵野秀明 パラノ・エヴァンゲリオン』(太田出版)
庵野秀明監督への超ロング・インタビュー集と、制作スタッフたちによる座談会です。『エヴァ』には庵野秀明監督の精神が如実に反映されていますので、監督の人間性から読み解くのは有効なアプローチ方法でしょう。
④諸星大二郎の漫画作品(元ネタ)
『エヴァ』(というより庵野秀明監督作品)はとにかく
それが、漫画家「諸星大二郎」氏の作品群です。
庵野監督は根っからの諸星大二郎フォロワーで、『画楽.mag』2014年3月号には庵野秀明氏と諸星大二郎氏の対談が載っており、庵野監督は「セカイ系の元祖はエヴァではなく諸星作品」とリスペクト満々に語っております。
例えばエヴァンゲリオンという巨人の元ネタは『影の街』の巨人ですし、知恵の実を食べた人類に対し、生命の実を食べた不死の生命という使徒の設定は『生命の木』に見られます。人類と使徒という2系統の生命の生存戦争という世界観は『妖怪ハンター』からの拝借ですし、人類が溶け合い単体の生命体へと進化するという人類補完計画の元ネタは『生物都市』にあります。
諸星大二郎作品はエヴァの原点ともいえるでしょう。
『妖怪ハンター』と『生命の木』を収録
『生物都市』収録
『影の街』収録
しかし諸星大二郎作品は日本のサブカル文化に多大な影響を与えていることは間違いないのに、イマイチ知名度がないのがもったいないです。
同じくアニメーション映画監督の宮崎駿氏も熱心な諸星フォロワーで、『もののけ姫』なんかは宮崎駿版『マッドメン』ですし、『崖の上のポニョ』のポニョの造形は『栞と紙魚子』シリーズのクトゥルーちゃんの影響が見られます。
漫画家の高橋留美子氏が、「諸星大二郎は間違いなく漫画家が憧れる漫画家」と言っていましたが、まぁその通りなんでしょう。
……と、最後はなぜか諸星大二郎の宣伝みたいになってしまいましたが、今回は最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
- シンエヴァの感想とメタ考察、及び宇多田ヒカルの論評記事→ 『シン・エヴァンゲリオン劇場版』感想とメタ考察:庵野秀明と宇多田ヒカルのエヴァ卒業ドキュメンタリー映画
- エヴァQの感想及びエヴァシリーズ全体の雑感と元ネタから考察するエヴァ→ 「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」感想+エヴァについて徒然と語る
- 庵野監督作シンゴジラの感想と考察→ 『シン・ゴジラ』感想+考察 これは、僕らの映画だ。
全文通して楽しんで読ませて頂きました。
エヴァがニーチェの精神分析の入口になるというのは、すごく良い発想だと思います!